レビュー/賃上げをすると物価はあがるのか――「賃金」と「賃上げ」の間にあるもの

賃金が上がる。

企業の人件費が増える。

企業は増えた費用を商品価格へ転嫁する。

物価が上がる。

一見すると、非常に分かりやすい。

だから賃上げが進むと、こんな疑問が出てくる。

「給料を上げても、その分だけ物価が上がったら意味がないのではないか」

しかし実際の経済では、賃金と物価はそれほど一直線にはつながっていない。

賃金が上がっても、生産性が同じだけ上がれば、一つの商品を作るために必要な労働コストは増えない。

企業が利益を減らして人件費増を吸収する場合もある。

販売価格をすぐには変更できない契約もある。

輸入原材料やエネルギー価格が物価を動かしている場合もある。

逆に、物価が上がったから労働者が賃上げを求めることもある。

「賃金が上がった」と「物価が上がった」が同時に起きても、それだけで「賃上げが物価を上げた」とは言えない。

賃金と物価の間には、いくつもの経路がある。

スイスの40年間を調べた研究

2026年2月にSwiss Journal of Economics and Statisticsで公表された研究は、スイスにおける賃金コストと物価の関係を長期の時系列データから分析した。

対象期間は1980年第1四半期から2019年第4四半期まで。

約40年間である。

研究では消費者物価と単位労働費用の関係を分析し、輸入インフレ、期待インフレ、需給ギャップなども考慮した。

その結果、物価ショックから賃金側への波及は比較的大きかった一方、賃金コストから物価への波及は限定的だった。

研究で推計された賃金コストから物価への長期的な波及は、近年の区間では10四半期後でもおよそ0.1、高インフレ期を含む古い区間でもおよそ0.2だった。

つまり、この研究が対象としたスイスでは、労働コストが上昇したからといって、それが同じ割合で消費者物価へ転嫁されていたわけではない。

ただし、これはスイスの制度、産業構造、輸入比率、賃金交渉、物価環境の下で得られた時系列分析である。

日本の個別企業や中小企業について「賃上げの10%しか価格転嫁されない」と読むことはできない。

見るべきなのは「賃金」ではなく「単位労働費用」

この研究を読むうえで重要なのは、単純な名目賃金ではなく「単位労働費用」を扱っていることである。

例えば、ある工場で一人の従業員に年間400万円を支払い、年間100個の商品を生産しているとする。

単純化すれば、一個の商品を作るための人件費は4万円である。

翌年、賃金が10%上昇して440万円になった。

生産量が100個のままなら、一個当たりの人件費も4万4000円へ上がる。

企業には価格を上げる圧力が生じる。

しかし同時に生産性が10%上昇し、一人で110個作れるようになったらどうだろう。

一個当たりの人件費はほぼ変わらない。

賃金が10%上がったからといって、商品の労働コストが10%上がるとは限らない。

だから賃上げと物価を考えるときには、賃金上昇率だけでなく生産性を見る必要がある。

賃上げ分を誰が負担するのか

企業の人件費が増えたとき、その費用にはいくつかの行き先がある。

販売価格へ転嫁する。

企業の利益で吸収する。

生産性を上げる。

仕入価格を見直す。

商品やサービスの構成を変える。

設備投資や別の経費を抑える。

人員配置を変える。

企業によって選択は異なる。

だから、

賃上げ → 値上げ

という一本の矢印だけでは企業行動を説明できない。

むしろ政策として知りたいのは、増加した人件費を企業がどの経路で吸収したかである。

利益率が高い企業と低い企業では違う

同じ5%の賃上げでも、企業への影響は同じではない。

利益率の高い企業なら、一定期間は利益を減らして吸収できるかもしれない。

利益率が低い企業では、その余地が小さい。

価格交渉力がある企業なら販売価格へ転嫁しやすい。

大企業との長期契約に依存する下請企業では、価格改定まで時間がかかるかもしれない。

労働集約的なサービス業では、人件費の影響が大きい。

一方、原材料費や設備費の比率が高い産業では、人件費上昇の影響は相対的に小さい場合がある。

「賃上げ率5%」という同じ数字でも、企業の費用構造によって価格への圧力は違う。

ラーメン1000円のうち、賃金はいくらなのか

身近な商品で考えてみる。

1000円の商品やサービスがある。

その1000円すべてが人件費ではない。

原材料。

家賃。

電気・ガス。

物流。

設備。

広告。

決済手数料。

税。

利益。

そして人件費。

さまざまな費用から価格は構成されている。

仮に販売価格に占める労働コストの割合が30%なら、人件費が5%増えても、他の条件がすべて同じという単純な計算では、総費用への影響は1.5%程度になる。

さらに生産性が上がれば影響は小さくなる。

企業が利益で一部を吸収すれば、価格への転嫁はさらに小さくなる。

「給料が5%上がったから商品価格も5%上げなければならない」という計算にはならない。

逆向きの矢印もある

さらに重要なのは、因果関係が逆方向にも存在し得ることである。

物価が上がる。

実質賃金が下がる。

労働者が賃上げを求める。

企業が賃金を上げる。

この場合は、

物価上昇 → 賃上げ

である。

現実には、

賃金 → 物価

という経路と、

物価 → 賃金

という経路が同時に存在する。

スイスの研究で物価ショックから賃金側への波及の方が大きく推計されたことは、この双方向性を考えるうえでも興味深い。

輸入インフレと賃金インフレを分ける

日本で特に重要なのが輸入価格である。

原油。

天然ガス。

小麦。

飼料。

原材料。

海外製品。

為替変動などを通じて、国内賃金とは別の要因で価格が動く。

輸入価格が上昇した時期に国内賃金も上がっていたとしても、消費者物価の上昇をすべて賃金のせいにはできない。

逆に輸入物価が下落しているのに国内サービス価格が上昇しているなら、国内の賃金や需要など別の要因を検討する必要がある。

「物価上昇率」という一つの数字を、国内要因と海外要因に分けて見る必要がある。

モノとサービスでも違う

賃金から価格への波及は、産業によっても異なる可能性がある。

例えば輸入品の価格は、海外の製造コストや為替の影響を強く受ける。

一方、理美容、介護、外食、宿泊などのサービスは、国内の人件費がコストの重要な部分を占める場合がある。

スイスの研究でも、国内品への波及は総合消費者物価より高く推計されている。

だから賃上げと物価の関係を分析するとき、総合CPIだけを見るのでは十分ではない。

輸入品。

国内財。

サービス。

それぞれを分けて見る必要がある。

価格転嫁には「時間」がある

企業はコストが上がった翌日に必ず価格を変えられるわけではない。

年間契約。

長期の取引契約。

価格表の改定時期。

顧客との交渉。

年度単位の予算。

さまざまな制約がある。

例えば4月に賃金を引き上げても、販売価格の改定が10月なら、その半年間は企業が費用増を吸収する。

その間、利益率が下がる。

10月の契約更新時に一部を転嫁する。

さらに翌年に残りを転嫁する。

こうした動きなら、賃金と価格の間には数四半期の時間差が生まれる。

価格転嫁を調べるなら「上がったか」だけでなく「いつ上がったか」を見る必要がある。

中小企業では「値上げできない」ことも政策問題になる

賃上げによるコスト増を価格へ転嫁できない企業では、別の場所に負担が現れる。

利益が減る。

設備投資を延期する。

採用を抑える。

労働時間を減らす。

別の経費を削る。

つまり物価が上がらなかったからといって、賃上げのコストが消えたわけではない。

どこかが負担している。

特に取引上の交渉力が弱い企業では、価格転嫁できないこと自体が経営問題になる。

したがって政策としては、

「賃上げによって物価がどれだけ上がったか」

だけでなく、

「賃上げによる費用を誰が負担したか」

を見る必要がある。

「価格が上がらなかった企業」も調べる

政策研究では、値上げした企業が注目されやすい。

しかし興味深いのは、賃金を上げたのに販売価格を上げなかった企業である。

なぜ価格を上げずに済んだのか。

生産性が上がったのか。

利益率が高かったのか。

仕入価格が下がったのか。

商品構成を変えたのか。

価格交渉ができず、利益を削っただけなのか。

同じ「価格据え置き」でも意味はまったく違う。

値上げした企業だけでなく、値上げしなかった企業の内部で何が起きたかを見る。

そこから賃上げと物価の間の経路が見えてくる。

「賃金・物価・生産性」を三点セットで見る

賃上げ政策を評価するなら、賃金だけを見るのでは足りない。

少なくとも三つの数字を同時に見る必要がある。

賃金。

物価。

生産性。

賃金が5%上昇した。

物価が2%上昇した。

生産性が3%上昇した。

という経済と、

賃金が5%上昇した。

物価が5%上昇した。

生産性が0%だった。

という経済では意味が違う。

さらに企業利益、輸入価格、需要などを加えることで、賃金と物価の関係をより正確に見ることができる。

日本なら「同じ企業」を追う

日本で賃上げと価格転嫁の関係を詳しく調べるなら、企業全体の平均値だけでなく、同じ企業を時間を追って見る方法が考えられる。

例えば四半期ごとに、

賃金。

労働時間。

生産量。

単位労働費用。

仕入価格。

販売価格。

粗利益率。

契約更新時期。

を追う。

すると、

賃上げ。

利益率低下。

契約更新。

価格転嫁。

という企業内部の時間的な流れを見ることができる。

さらに企業規模や業種によって比較すれば、どこで価格転嫁が止まっているのかも見えやすくなる。

「賃上げ率」から「賃上げを吸収する力」へ

賃上げ政策では、何%賃金が上がったかが注目される。

もちろん重要な数字である。

しかし持続的な賃上げを考えるなら、その賃上げを企業がどう支えているかも見る必要がある。

生産性向上で吸収しているのか。

価格転嫁しているのか。

利益を削っているのか。

取引先に負担を移しているのか。

投資を減らしているのか。

この違いによって、同じ賃上げでも持続可能性は変わる。

企業にとって重要なのは「賃金を上げられたか」だけではなく、「上げた賃金を翌年も払える構造になったか」である。

「賃上げか物価安定か」という二択にしない

賃上げと物価の議論は、ときに単純な二択になる。

賃金を上げれば物価が上がる。

だから賃上げを抑えなければならない。

あるいは、賃上げはすべて良い。

どちらも単純すぎる。

見るべきなのは、その間にある経路である。

賃金はどれだけ上がったのか。

生産性はどう変わったのか。

単位労働費用はどう動いたのか。

企業は利益で吸収したのか。

価格へ転嫁したのか。

転嫁できなかったのか。

輸入価格はどうだったのか。

そして、それぞれの変化にはどれだけ時間差があったのか。

「賃金が上がったから物価が上がった」と一本の矢印を引くのではなく、その間にある企業行動を見る。

賃上げと物価を考えるとき、政策として本当に知りたいのはそこではないだろうか。

参考資料・原典