防災投資の効果をどう測るか――被害が起きなかった価値

自治体が詳細なハザードマップを作り、避難所を指定し、防災アプリで警報を届けても、それだけで住民が避難できるとは限らない。

警報を受け取った人が、「これは自分が動くべき情報なのか」「家族の誰に連絡するのか」「高齢の親を誰が迎えに行くのか」「どの道を通れば安全なのか」をその場で考え始めるようでは、実際の避難までに時間がかかる。

防災計画に書かれた「避難」と、住民が実際に行う「避難」の間には、いくつもの小さな意思決定が存在するからだ。

2026年9月に公表された災害リスク管理に関する研究群は、この問題を「住民参加」と「最初の行動」という二つの側面から捉えている。

日本でも2026年5月29日から防災気象情報が大きく変わった。河川氾濫、大雨、土砂災害、高潮などの情報を5段階の警戒レベルとの対応が分かりやすくなるよう整理し、線状降水帯についても直前予測の運用が始まった。

情報は進化している。

だからこそ次に問われるのは、「その情報を受け取った住民が、本当に動けるようになっているか」である。

51研究から見えた「住民参加」の中身

2026年9月公表のスコーピングレビュー「Mapping participatory approaches in disaster risk management」は、災害リスク管理における参加型研究と市民科学に関する51研究を抽出し、住民がどのような形で防災に関与しているかを整理した。

重要なのは、「住民参加」を一括りにしていないことである。

行政や研究者が住民から意見を聞く段階もあれば、住民と一緒に計画を作る段階もある。さらに住民自身がデータ収集や実施に関わるものまで、参加の深さは異なる。

説明会に100人集まった防災計画と、10人の住民が行政担当者と避難経路を歩き、危険箇所を確認して計画を書き換えた防災計画を、同じ「住民参加」と評価することはできない。

レビューでは、高い水準の参加は災害への備えや被害軽減の段階に集中し、実際の発災対応や復旧段階では限定的だった。

また、時間や資源の不足、行政・専門家と住民との力関係、参加者の代表性、地域で蓄積された知識を正式な意思決定へ取り込む難しさなどが障壁として整理されている。

この研究は、参加型防災によって人的被害が何%減少するかを検証した効果試験ではない。

しかし、「住民参加を実施したか」ではなく、「誰が、いつ、どこまで意思決定に参加したか」を見る必要があることを示している。

会議に来る人だけで地域を代表させない

ここから自治体の実務に引き寄せると、もう一つ重要な問題が見えてくる。

防災会議や説明会に参加できる住民と、災害時に支援を必要とする住民は、必ずしも一致しない。

平日の夜に公民館で説明会を開けば、そこへ来られる人の意見は聞ける。しかし、高齢者、障害者、乳幼児を抱える家庭、介護をしている人、外国人住民など、避難時に特別な条件を抱える人ほど会議には参加しにくい可能性がある。

「住民50人が参加した」ではなく、

誰が参加していないのか。

その人たちの避難上の条件を誰が把握しているのか。

そこまで確認して初めて、参加の質を評価できる。

これは現在の日本の防災行政とも直接関係する。

内閣府は2026年度も、災害時に自ら避難することが難しい高齢者や障害者などについて「個別避難計画」の作成を進めており、2026年6月には避難行動要支援者名簿の情報提供・活用や個別避難計画に関する通知も出している。

つまり国の制度も、「地域全体の避難計画」だけではなく、「この人は実際にどう避難するのか」という単位へ降りてきている。

警報の精度だけでは避難は完成しない

この問題が2026年に特に重要なのは、防災情報そのものが高度化しているからである。

気象庁は5月29日から新しい防災気象情報の運用を開始し、線状降水帯についても、今後3時間以内に発生する危険性が高まった場合に知らせる直前予測を導入した。

しかし、9月16日の気象庁長官会見では、8月から9月初めに相次いだ豪雨を振り返り、線状降水帯の予測精度について「当初想定していた精度よりは低い状況」と説明された。

一方、直前予測が発表された66事例のうち60事例では、実際に3時間100ミリ以上の大雨となったことも示されている。

ここから重要なことが分かる。

防災情報には常に不確実性がある。

だから住民側も、「この情報が出れば必ず災害になる」「この情報が出なければ安全だ」という単純な行動設計にはできない。

情報の精度を高めることと、不確実な情報を受け取った人がどう判断するかを設計することは、別の課題なのである。

「避難してください」から「最初に何をするか」へ

そこで興味深いのが、スウェーデンの河川流域におけるダム決壊リスクを扱った研究である。

研究は、人間中心の「first mile」という考え方からリスク管理を捉えている。

通信の世界では情報を住民まで届ける「last mile」が問題にされてきた。

しかし情報が届いた瞬間に、防災は終わるわけではない。

住民側から見れば、そこがスタート地点である。

警報を聞いた。

スマートフォンに通知が来た。

防災無線が鳴った。

では、その次に何をするのか。

この「最初の一歩」をあらかじめ設計するのがfirst mileの発想である。

避難訓練も「避難所まで歩く」だけでは足りない

この考え方を日本の地域防災に当てはめると、避難訓練の設計も変わる。

例えば「午前9時に警戒レベル3相当の情報が出た」と仮定する。

その瞬間に各家庭が何をするかを確認する。

高齢の母親には誰が電話するのか。

迎えに行くのは誰か。

車を使うのか徒歩なのか。

いつもの道路が冠水していたらどこを通るのか。

家族が別々の場所にいる場合はどこで合流するのか。

避難所へ行くこと自体が危険になった場合、近くのどこで安全を確保するのか。

こうした一連の判断を訓練する。

すると防災訓練は「避難所まで歩いて、防災用品の説明を聞くイベント」ではなく、「警報から行動までのシステムテスト」になる。

そして訓練後には、「何人参加したか」より重要なデータが残る。

防災訓練を地域の「システムテスト」にする

例えば自治体は、訓練時に次のような項目を確認できる。

警報を受けてから最初の行動を始めるまで何分かかったか。

誰へ連絡するか決まっていた世帯は何%か。

避難経路を実際に通れなかった世帯はあったか。

支援者が来なければ避難できない人は誰だったか。

住民から出た問題点のうち、何件が地域防災計画や個別避難計画へ反映されたか。

さらに重要なのは、「参加しなかった人」を記録することである。

参加者300人という数字だけを見るのではなく、参加できなかった人の中に、防災上もっとも支援を必要とする人が含まれていないかを見る。

ここまでやれば、住民参加そのものが地域の防災能力を測る仕組みになる。

防災DXの次に必要なのは「行動DX」かもしれない

現在の防災政策では、観測、予測、情報配信の高度化が急速に進んでいる。

線状降水帯の直前予測、危険度分布、スマートフォンへの通知など、住民が得られる情報量は以前とは比較にならない。

しかし情報が高度になるほど、「情報を出した」ことと「人が動いた」ことを区別する必要がある。

行政が警報を発表した。

アプリが通知した。

住民が受信した。

内容を理解した。

自分が対象だと判断した。

家族や支援者へ連絡した。

移動を開始した。

安全な場所へ到達した。

防災行政が最終的に守りたいのは、一番上ではなく一番下である。

だからこれからの防災政策では、「情報が届いたか」だけでなく、「情報を受け取った後、人がどこまで動けたか」を測る必要がある。

住民参加も同じだ。

説明会を開催したかではなく、住民の経験や提案によって計画の何が変わったのかを見る。

避難計画も同じである。

計画書が完成しているかではなく、警報が鳴った瞬間に住民が最初の一歩を踏み出せるかを見る。

防災計画を「行政が作る文書」から「地域住民と繰り返し動かすシステム」へ変える。

2026年の研究群が投げかけているのは、住民参加を増やそうという単純な話ではなく、防災政策の評価地点そのものを「計画」から「行動」へ移す必要性だと読むことができる。

参考資料・原典